写真論」カテゴリーアーカイブ

【2019.5.27】超望遠の出番

JALのデカール機は機体胴体の主翼後方にデザインされている場合が多く、そこを見せようとするとどうしても後追い気味になる。

トリッピーからニャッキーまでしっかり捉えたいとするならば、 ロクヨンに1.4倍テレコンを使用して青空バックでこのように狙うのもありだね。

ただし、光の当たり方と撮影したアングルによっては機体下部へ向けてシャドウ部がグラデーションで濃くなっていき、キャラクターの足元の色もそれに従って色が濁ってくる。

それにしても、適度に風があり青空だし。気持ちのいい朝だった。

冬しか超望遠は厳しいかなと思っていたが、距離が近いこともあってRWY34Rからの離陸機を城南島海浜公園から狙うと綺麗に撮れた。

【2019.5.17】エゴコロ

エゴコロって、鍛えることができるのだろうか。

写真にセンスの有無は確実にある。エゴコロもそう。元々兼ね備えているような人って必ずいる。

どのレベルの話をするかを規定しないのは若干危険だが、頑張ればなんとかなるものなのかな。

なんとか、なるといいな。

【2019.5.10】あえて現像しない

JPG尊重論の類ではない。

目の前の光景をありのままに撮る。

ノイズ処理の観点からRAWから現像した方が良いのはわかっているが、撮った時に心で感じたままに写真が撮れていたとしたら、あえて現像はしない。

色温度の追い込みとコントラストの調整だけで、何もしない。

さらっと書いた上の一文がキモなんだけどね。

【2019.5.9】引き寄せの法則か、確率論か

NRT RWY34L Final

晴れ 曇り 雨

と単純には分けられないけれど、撮影に行くとなれば晴れた方が良いだろうか。

曇り空には曇り空のドラマが待っているからか、あまり曇りを気にしない。むしろ嬉しいぐらいの時もある。

基本的にヒコーキは外で撮るわけだから、全天候型で構えている。

とはいえ、内容によるけどね。作品として狙うならどんな天気でも自分なりの表現をすれば良いし、記録性やレポート性の高い写真でクライアントのPR要素が高ければ高いほど雨より晴れの方が良いのは確かなのだが。

いつも思うのは、場数を多くすれば良いシーンに巡り合える確率が上がるのか、それとも良いシーンを引き寄せるのか、ということ。

同じシーンが繰り広げられていてもそこを見逃さず捉える人もいればその現象すら見ていなかった人もいるだろうし、そもそも人によっては興味のない世界かもしれない訳で。

写真の深さは単に上手いか下手くそかだけでは語れないね。

でもひょっとしたら、上手いと感じる要因の一つとして、人とは違う視点や表現したい世界があって、見る側をハッとさせる部分を兼ね備えていることが挙げられるかもしれないね。

雲が低い場合に、このシーンを想定もしくは期待しているか。

もしくは、まだまだ遠いとしてもレンズ越しにカメラを覗いているか。

それと、一つだけ確信があるのは、写真撮影には集中力が必要だし、集中している時の方が圧倒的に良い写真が撮れている。

長時間の撮影、連日の撮影であったとしても、人間の集中力は体力と同様限界があるから、メリハリをつけたりしっかり休んだりとセルフコントロールすることが大事だなと痛感している。

ところで、私の結論としては引き寄せの法則があると思っている。運がある、ということだ。確率論だけでは語れないものがある。

【2019.5.7】映えの功績か、功罪か

インスタ映え、という言葉が当たり前になって久しいが、WEB上でのみ写真を楽しむことが増えた。

もっと言えば、スマホ上のみで写真をアップして、閲覧する習慣が激増している感覚がある。

見た目のインパクトを求めてあらかじめ用意されたフィルタでエフェクトを効かせて、写真、というか画像を楽しむことは決して悪いことではない。

ハイコントラスト、高彩度、HDRぽいものから、本格的なモノクローム調まで様々な楽しみ方があるのは、手軽さも含めて楽しさはある。

雑な言い方をすれば、いままでフォトレタッチャーが人を惹きつけるビジュアルを制作する為に、Photoshopなどのツールを駆使して写真をレタッチしてきた。

巷で出回る一流広告レベルまでにはほど遠いが、レタッチャー気分に浸る感覚さえも忘れるぐらいの手軽さで、容易にレタッチできる手段を手に入れた我々は、写真を遊び道具として楽しんでいる。

ところが、大袈裟に言えばその世界観を「写真道」に持ち込もうとすると、拒絶反応されるのがオチだ。

「オーバーコントロール」。「やりすぎ」。「写真ではない」。などと酷評を受ける。

アリか、ナシか、の振れ幅の大きな議論が始まってしまいそうだが、こう考えてみてはどうだろうか。

「一度は振り切ってみればいい」。

現像での悩みの中に「どこまでやっていいかわからない」というものも多く聞かれる。

いわゆる、「いい塩梅」、「よきところ」が明確になっていない。

それらは自ら築き上げていくしかないのだが、映え過ぎてもいいから、一度いくところまで行ってしまおう。

映えを否定して何もしないよりは一度振り切って戻ってきたときに、「このぐらいならいいかも」と気づいて見えてくることもあるかもしれない。

あえていうなら、「オーバーコントロール」を恐るな。気をつけてばかりいては、何も始まらないし、何も変わらない。

気をつけるのは、どこまでが「オーバーコントロール」なのかが、明確に理解してからのことだ。

結果ではなく、過程のことなので、慎重な部分の話ではあるけれども、これだけは言っておきたい。

【2019.5.6】いったい、何が、撮りたいんだ?

いまでも心に残る。

大学生の頃。ヒコーキを夢中に撮影し始めて、少しこなれた頃。

生意気にも「ちょっと狙い通りに撮れているかも」なんて思っていて、写真の世界の人ではなかったけれども、影響を受けていた先輩に写真を見せた。

見終わってから一言。

「いったい、何が、撮りたいんだ?」

え? と思わず声が出てしまったが

「ヒコーキですよ、ヒコーキ」

そう答えたが

「何も伝わってこないよ」。

花が撮りたいの?

空が撮りたいの?

それとも、山が撮りたいの?

たぶんね、このやりとりが私のヒコーキ写真の方向性を定めてくれたターニングポイントだったように思う。

画面いっぱいにドアップでヒコーキを撮ればいいわけではないが、主題として「嗚呼、深澤はヒコーキを撮りたかったんだな」ということがストレートに伝わる写真。

それからの試行錯誤、構想、妄想。失敗と試みが、財産だなと思える。

誤解されることを恐れずに書けば、花や空を取り入れて撮るヒコーキ写真も素晴らしいのだが、私としては、やや置きにいっている写真、という認識があるのだと思う。

渾身のストレートを投げ込みたい、という単純さが私には合っているといえばそれまでだが、そのストレートがべらぼうに速く、体重が乗った重い球でありたい。

その速さと重さが、人の心へ届く、響く球質だ、と思っているんだろうね。

大人になって、プロになって、緩急も使えるし、場面場面で器用な使い分けはできるようになったが、ここぞのストレートは、誰にも負けたくない。

と、このようについつい野球に例えてしまうと

「野球を知らないから、わかんない、、、」と言われてしまう(笑)

【2019.5.3】レタッチの範囲を明確にせよ

1. JPG撮りっぱなしの写真

2. RAWデータを何も補正せずに書き出した写真

コントラストや色かぶり、トーンを調整、補正することを「レタッチ」とは言わないと考えている。

「色やコントラストをレタッチする」という表現は、一見すると何の抵抗もなく「そうか」と思ってしまいがちだが、「レタッチ」はあくまでも画像修整(修正)であり、画像補正とは明確に線が引かれるべきなのだ。

つまり、現像ソフトのパラメータを動かしてできる範囲のことは、写真としてできることなので「レタッチ」ではない。

ただし、ネットで「レタッチとは」と検索すると

「カメラで撮影したままの状態から、写真を修正したり撮影者の表現イメージに近づけるように、パソコン上で行う修正作業のこと」

「画像の色の補正や汚れの除去、合成といった画像の修整や加工作業のこと」

「写真や絵画などに手を入れる、手直しをする、修正する。専用画像ソフトで画像を加工する」

「画像ソフトを画像の濃度やコントラストを調整する作業のこと」

などと書かれている。

要するに、現像ソフトでトーンやホワイトバランスなどを調整した段階で「レタッチ」と認定される、といった内容に受け取れる。

だがしかし、私はあえて線引きをしたい。

画像補正は「レタッチ」にあらず。画像修整(修正)が「レタッチ」だと。

そんな言葉遊び、どうでもいいとお考えの方もおられると思うが、実はここ、プロの世界ではお金が絡んでくるのでより明確化していきたいところなのだ。

単刀直入に書けば、画像補正はお金を請求しない。つまり、撮影費に含まれているものという認識だ。

その上で、「レタッチ」、画像修整(修正)は請求の対象となるべきなのだ。

説明しよう。

上の写真は1.がJPG撮りっぱなし、2.がRAWデータをそのまま何も補正せずに書き出した写真だ。

目的に敵っていれば、JPG撮りっぱなしを納品することもある。つまり、画像補正なしだ。

ただ、ほとんどの場合、RAWデータを現像ソフトでトーン調整やノイズの処理、シャープネスを適宜かけて書き出す。

3. RAWデータを現像ソフトで画像補正して書き出した写真

ここまでは撮影費に含まれる撮影者がやるべき範囲のこと。

ここまでの作業を「レタッチ」とは言わない。何でか。写真できる範囲のことだから。

修整(修正)や加工に含まない。

問題は、ここから先だ。

「エプロンのコンクリート表面がやや汚いから綺麗にして欲しい」。そうクライアントから要望があったとする。そこで初めて「レタッチ」の範囲に入ってくる。

4. 「レタッチ」をして、エプロンのコンクリート面を綺麗にした

ところが、重ねて要望がきた。黒とオレンジ色のラインを綺麗にできないかな。

さらに「レタッチ」をする。

5. さらに「レタッチ」をして、黒とオレンジ色のラインを綺麗にした

この明確な定義というか、線引きがお分かりだろう。ちなみにこの段階で要望されていないが、B767のノーズ付近も綺麗にしている。

4.と5.は、写真ではどうにもできない範囲のことをしている。

汚れを除去したり、かすれた線を明確にして綺麗に見せるのは、はっきりとした画像修整、「レタッチ」なのだ。

繰り返すが、トーン調整や色補正は、写真でできることだ。

モノクロの暗室時代だって、フィルムの現像時間を変えたり、紙焼きの段階でコントラストを調整したり、覆い焼きや焼き込みをしていたわけで、写真でできる範囲なわけ。

ここはしっかり線引きして捉えておいて欲しい。

稀に写真の講評などで現像ソフトでできる範囲を「レタッチ」と表現されていたとしたら、少しズレていると言わざるを得ない。

ここでさらに一つ。「画像内のゴミ取りはレタッチになる?」というところだが、ここは「レタッチ」にあらずと考えている。

そもそもゴミは存在しないものであり、それを除去するのは当然のこと。

さらにさらにもう一つ。「パース直しはレタッチになる?」も大事なところ。

パース直しとは室内や建物の外観写真などで水平垂直を出すことだが、これも「レタッチ」にあらずだ。

理由は、フィルム時代には蛇腹式のカメラを使って撮影時にパースを調整して撮影していたから。

フィルムでできていたことが、デジタルになって手軽に一眼レフカメラで撮れるからといって、パースが調整されていないなんておかしな話だからだ。

ここで、??と疑問が浮かぶ方は、フィルム時代からプロとして仕事をしてきた方だろう。

そう、フィルム時代にできていたこと。逆を言えば、フィルム代も現像代もクライアントに「感材代」として請求できていた。

もちろん、「感材代」持ちの仕事も多々あったが、大体は「感材代」はクライアント持ちだった。

それがデジタルカメラになって、現像も撮影費に含まれる。と私もサラリと書いている。画像補正は請求しない、と。

まあ、それはもはやいい。すでにそれが前提となっているから。

あえてお金の話と結びつけたのは、その方が「レタッチ」の範囲が明確になると思ったから。こういった突っ込んだ話は、結構他にも色々あるよ。

【2019.5.1】最終形態によって変わるシャドウ部の扱い

写真の仕上げの話ね。

晴天順光での撮影時に機体の白が飛ばないように(トーンが残るように)露出を設定すると、機体や主翼下部、エンジン内のシャドウ部は黒く潰れ気味に(トーンがない黒に近い)なる。

これは当然のなりゆき。

このANAのB777-300ERの写真はJPG撮りっぱなしだが、ポジフィルムで撮ったら上の写真よりもシャドウ部が真っ黒になっていた。その辺の感覚はポジフィルム経験者にしかわからないことかもしれないが、つまりデジタルカメラによる画像再現能力は近年目覚しく進化しており、階調豊かな写真に仕上がりつつある。

ところで、なりゆきに従っている写真を見て「シャドウが暗すぎる」と指摘される方もたまにいるが、シャドウ部を持ち上げすぎてシャビシャビな気持ちの悪い写真を見せられても、心を揺さぶる写真ではない場合が多い。

理由を聞けば、デジタルは現像でシャドウ部を起こせるのだから、起こすべきだ、ということだろうか。

写真の仕上げに関しては、一律ではないと思っている。つまり、写真の最終形態に合わせた「最適化」の概念が必要だ。

ウェブで見せるのか、プリントで仕上げるのか。はたまた印刷されるのか。

その最終形態によって、例えばコントラスト調整もやや変えるし、機体の白部分のRGB数値さえ変える。

最終形態に「最適化」する感覚でトーン調整を行い、やや余裕を持たせた状態の16bitTIFFを「ワンソース」とする考え方を「航空写真家深澤明のド本気講座」でも触れているし、昨年発行した「ド本気バイブル」にも明記してあるが、ご興味にある方は次回講座の告知をお持ちいただきたい。

一つだけ明確にしておきたいのは、例えばプリントが最終形態の場合、トーンジャンプや色の飽和など、写真的に破綻していないことが大前提となる。

要するに、現像時に派手に見えるようにパラメータを動かしすぎたことが原因の一つかもしれないが、一番重要なのは作品としての撮影者の意図が込めらているかどうかだ。

コントラストが高すぎることだけが減点の対象となっていてはいけないというのが私の持論だ。

写真を見る側が、あるいは評価する側が、現像を突き詰めて研究し尽くし、本当の意味でも「やりすぎ」な現像を知っているかどうか。

撮影した写真を何もしないに等しい人からすれば、少しでも追い込んだ写真は「やりすぎ」になるし、何もしない写真を「いい写真だ」というだろう。

誤解しないで欲しいのは、何もしないのがいけないのではない。

一番の理想は、シャッターを切っただけの写真が、自分の思い通りの仕上がりであること。

そこに行き着くこともあるし、ない場合には現像で自分のイメージに近く仕上げていく。

ただ、この手の話の展開でしっかりと押さえておかなければいけないことは、目の前に繰り広げられている光景を忠実に再現しようとするのか、自分なりの視点や思考で捉えていこうとするのか。

実はそこが第一の分岐点だ。

見たままに再現できたときに喜びを感じる人と、自分なりの解釈で人とは違う世界を表現できたときに喜びを感じる人がいるのは、何となくお分かりだろう。

どちらが良い悪いではない。大前提の問題。

話が尽きないが、ここって結構重要。

JPG撮りっぱなし。ウェブやプリントは白の抜けと黒の締まりがキーポイント。
RAWデータをDxOPhotoLab2で現像し、シャドウ部を起こし、全体のトーンをやわらかくした。

シンプルに言えば、上はウェブとプリントに適した写真データで、下が印刷に適した写真データ、といったところ。

ウェブやプリントで重要なのは、白の抜けと黒の締まり。それは印刷にも言えることなのだが、印刷はコントラストが高いよりやわらかいトーンの方が親和性が高い。

単に「やりすぎ」では片付けられない奥深さが、何となく伝わるかな。